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昭和43年08月24日 朝の御理解



 御理解 第32節
 「女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある、またそれを煮て食べる時、神様頂きますというような心あれば、あたることなし。」
 一応信心を頂く様になると物に対する所の心恩を説きますし、又その神恩に対して感謝の心を持って教えられます、私は初心の方が参って参りますとまづ帰り掛けには、自分の履いて来た下駄にでも靴にでもお礼をいう心持、また履く時には履かして頂きますと言う心になりなさい、とこういう風に言うんです。
    (途中きれ)
 神様のお働きに対するそのお礼心、所謂神恩報謝を教える訳ですね。例えば三十一節にも見えますね、信心するものは木の切り株に腰を降ろして休んでも立つ時には、礼を言う心持ちになれよと、是はもう下駄とかバス所じゃない、まあ言うならば世の中で一番邪魔になる様な物、又は要らん様な物にでもまあお礼を言えとこう言うのである。32節にも矢張り、是は女と言うけれども女に限った事じゃない。
 信心させて頂く者全てが菜園に出てと言うのは野菜畑に出てと言うだけの事じゃない、お互いが仕事のそれぞれの現場お互いの生活の現場に於いての事だ。生活の現場に於いて、例えば原洋服屋さんならばミシンの前に座る時に、只今からミシンを踏まさせて頂きます、と言う様な、言わば是は地を拝んで抜く様な心になるのと同じ事ですから、そういう心におかげがある、又それを煮て食べると言う。
 そのミシンによって例えばここに、ひとつの洋服なら洋服が出来上がった時に、神様ここにおかげでこの様に見事に出来ます。と例えばお礼を言う様な心で頂いたら、あたる事なしと仰る、それによって例えば引っ掛る様な事ない、それを必ずお得意さんにも喜んで貰えるだろう、それが引っ掛って、金が取れないなんていう事はない、とこう言うとおんなし事なんです。
 例えば木の切り株に腰を降ろしてもと仰る、ミシンを踏む時に腰掛ける腰掛けにでも、矢張りお礼を言う様な心持ちになれば、心持ちになれよ信心する者はそう言う様なもう些細な事にでも、もう兎に角お礼を言うておるとか、お礼を言う心持ちになるそう言う心持ちが尊い。ですからここん所はまあ一応ここを教えられますしまあ心掛けておけば出来る事でもあるがです、でけておるから本当にこの様なおかげが受けられるか。
 今原洋服屋さんに申しましたら本当にそう言う風にして仕事もさせて貰っておるし、拝んだり頂いたりしておるけれどもそれをお得意さんに持って行く時に、果たしてお得意さんに喜ばれよるか又は出来上ってしもうてから、値切られて居る様な事はないか値切られところじゃなかそれが半分な引っ掛った、いやもう丸っきり引っ掛ってしもうたと言う様な事はないか、お互いの商売の面でもそれぞれの生活の現場に置いてです。
 それは厳密に言や、そこにお粗末ご無礼不行き届きがあっておりますから、それはそう言う事の場合振り返って見ると、反省して見ると云う事に成って来るんですから、そこんところで、あやっぱお粗末ご無礼が出ておった、そこでそういう、言うならば引っ掛りが出来たと言う事に、と言う様な事でですね、私はあのこう言う所を繰り返しとったんじゃいかんと思うです。ほんとにそいう心になれば、おかげがあるとこう仰る。そういう心になれば、あたる事なしとこう仰る。そういう心持になると言う事。
 それが段々身に付いて行くと言う事、それがもうたくまず、履物を履く時には、手でこう合掌しなくても、心で合掌して、車に乗る時には先ず車を拝まして貰うという心がです、自ずと付いて来る。けれども矢張り事故に遭ったり、又は引っ掛りも有ったり、おかげがあると仰るのにおかげが無かったり、それは自分のどこにか、お粗末ご無礼があってからの事であるから、まその位の事は仕方が無いと言う様な事になるとですね、神様の働きが、えらい漠然としてくる。
 はっきりして来ない、そこに確信の持てれる生活というかね、それぞれの生活の現場においても確信の持てる所の現場にして行く事が出来ん。そこで教祖の神様はこんなウソを仰っている筈はないしね、女が菜園に出て菜を抜く時に大概は、金光様の御信心すりゃですね、矢張りこりゃ出来よりますよ。お野菜を抜く時、抜き抜き神様におかげで立派に出来ました、神様頂きますと言わば大地を拝むどころか、頂きますというような心で抜きよるに違いない。
 それでもそれを食べる時には、あたったりする。例えばそれを、お百姓さんで言うなら、それを市場なら市場に出して、それがほんとに肥料代にも無い様な安く、二束三文でたたかれる、と言った様な事があっておるじゃないですか。さあそれもおかげといやぁおかげですけれど、そこん所は、本当におかげにして行く道を教えて下さってあるのが、この表面をこうやって見ただけではですね、どうもそれが身について来た所でです、漠然として来るんですよ。
 そして自分の心掛けが悪かったからちか、何かそこに自分で反省させられる事があって、おかげの受けられなかったのも当たり前と、言った様な事になって来てですね。もうひとつ向こうのおかげがはっきりして来ない。あたる事がないと仰るのにあたり、おかげがあると仰るのにおかげが無い、確かにけれどもですね、こういう心持になると云う事は、信心者のみに許された心のゆとりだと私は思う。
 ですから成程それは確かにおかげは受けますよね、今あるを嬉しといやび祀らなば、家に不幸の起こる事無しと言う様な。 例えばこの大祓の時に頂いた御教えですよね、そういう御教えでもですね、私にはも少しほんとに家に不幸せの起こって来る事の前に、おかげを頂かして頂く為にです、根本的な所にです、ひとつメスを入れなければいけない、本当におかげにつなげれるものに。
 そこで私はあの、この事に付いての御理解は、もう是は言うならもっと深めてはどれ程頂いたか分らんね。ここのところの御理解は30節・31節なんかの御理解は、ですから皆さんも、まあそういう意味合いでなら身に付いている、そこを合掌してものを頂くとか、お礼を言うとか、神様に頂きますとか、そう言う様なものは、段々身に付いて来ておるのにも係らずです。それがおかげになっていないと言う所にです。
 是はまだ自分の信心が足らんからだというだけではなくて、是はもうそもそもの所に間違いがあるのだ、教祖様の仰っておられるこのおかげと言う物を本当におかげたらしめるには、根本的な所の言わば、所謂観点というかね、観点が違う、観ておる所が違う、頂き所が間違っている。そこで私はその事を感じましたから、又次の所を開かして頂きましたら、立教神伝の最後の所を頂くんですよね。
 「神も助かり氏子も立ち行き、氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」と言う所。神も助かり、氏子も立ち行く、氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く。そこん所が、あいよかけよで立ち行くと言う所になっていないからではないかと言う事です。
 そこん所が例えば自分が助かる自分がおかげを頂く。例えば原洋服屋さん( ? )確かにミシンを踏む時にミシンを拝んだ。綺麗に出来るよった時にも、神様頂きますという心になった。それをお客さんに渡した時にも確かに喜んで貰った。所がお金が入って来ない、と例えばまあ言う様な事があると致しましょうか、そう言う様な事がある、そうすると、この御教えは嘘の事になるそれがどういう訳でなら、私共は教祖の仰っておられるのを絶対のものとして頂いておりますからそんな事のある筈はない。
 それはまだこちらの信心が足らないからに間違いはない、けれどもです、それでこう何時も誤魔化されたり誤魔化して行きよる様な感じがする。そこでそこのところを誤魔化して行かずにです、又ごまかされたなりと、言った様な気持でそこを通り抜けずにです、今日私が頂きます様に、果たしてそれがねあいよかけよで立ち行くと言う所、神も助かり氏子も立ち行く、そこに神の助かりがあるかどうかじゃなかろうかと、是はまあ、私が思うのです、だからここだけは絶対と思う所があるのですよね。
 神も助かり氏子も立ち行く、と言う所は、その次に「氏子あっての神、神あっての氏子」という所、もうここんところはもう絶対のものなんです、氏子あっての神、神あっての氏子、ははぁここんところで違えよるなと思うんです、私が、是はどこまでも神様の言です、神様のお言葉なんです、神様の立場から云っておる御教えなんです。氏子あっての神、神あっての氏子。  
 そこで今度は私共の立場、私共の立場から言うたら、ここんところが氏子あっての神でなくて、神様あっての氏子と言う事にならなきゃいけんのじゃないかと思う。神様あっての私なんだ、そこんところを神様がそう仰るからと思うてから、そうです、そうです、氏子あっての神です、と言うような言わば頂き方をしている、氏子が拝んであげなければ神様は立ち行きなさらん。
 氏子が神様と立てなければ、神様はあるやら無いやら分からんとじゃから、とまあ、そんな横着な事は言いはしませんけれども、そう言う様な頂方なってしまっている訳なんです、神様がそう言うて御座るから、そうだ、そうだとこう思うて頂いておるというところがですね、間違いのように思うのです、神様は氏子あっての神、と仰せられるけれども、私共は一切、なら私自身がおかげを受けてみて、神様無しにはということ。
 もし大坪の家で神様がおられなかったならということ、今頃はどう言う事になっとったであろうか、と言う事そこで神様あっての私であると言う事に成る、神あっての氏子であると言う事になる、神様あっての私なのだ、私あっての神様じゃない、神あっての氏子であると言う所がです。私は分からして頂いて、そしてこの31節である、32節の所がそれが行じられ、それが身に付いて来る様になったらです、あたる事なし、おかげがあるとこう断言しておられるおかげが頂けるんだという事を私は思います。
 ですからここんところを又こうして教えて貰うと、簡単なんですけれどもさあ実際に神様あっての氏子と言う事は実に難しい事なんです。夕べの月次祭でも私申しました様に、信心即生活生活即信心、同じ様にあるけれども違い信心の中に生活があるのだ、そんなら信心の中に生活があるならば、どう言う事になっておらなければならんかとと言う所になる、それはまあ先程の御理解をもう一辺ひとつ頂き直してみて下さい。
 そこで私共のその生き方というものがですね、氏子あっての神、神あっての氏子を、神あっての氏子、氏子あっての神と言う様に、こちらの内容、神様あっての私達だと言う所に、どういう事になるかというと、全ての事がいいですか、生活の上に全ての事がです、神様本位にならなければならないという事になる自分の考えじゃない、神様の考えで動くのだ、ここんところ神様の思いはどういう風にあるであろうか、そこを思うて神様の思いで生活が出来る。
 いわゆる神様本位の生活、そこに神様が又氏子本位になって下さるおかげ、此処ん所に大体いうとですね、氏子一握りは是だけだけれども、神の一握りというたら、どれだけあるやら分らん、と久留米の石橋先生が仰って居られた様に、私達の頂くおかげというものがですね、神様の一握りに触れていく、氏子が神様まかせなら、神様が氏子まかせになると仰せられますからと仰る。
 ですから私共が先ずなんと言うても、神様本位にならせて貰うと言う事、それは全ての事に神様が又氏子本位になって下さる。私共が神様本位と言う様な事は、大した事はないけれども、神様が氏子本位になって下さったら、どう言う事になって来るだろうか、氏子本位、人間本位なって下さる事になったら、それは大変な事になって来るんです。それを自分の我情、自分の我欲の通りに神様をしたり、自分の思い通りに神様を扱い動かしたり、自分の思う通りに神様を働かせたり、どうぞお願いします、と言いよる事は、自分の思い通りに神様を使おうと思いよる。
 是でややっぱり自分の一握りは自分の一握りであり、この32節・31節に出ておる表面の所のおかげしかならんのです。おかげになったりならなかったりという感じなんです、そこんところがです、神様を動かすのじゃなくて、こちらが神様本位に動いて行くのだ、こちらが神様本位になると云う事の中ににはです、損する事もあっろう、笑われる事もあろう、却って痛い苦しい思いをする事もあろう、神様本位ですから。
 けれどもここのところを、神様本位と、神様まかせになりきらせて頂いた時に、この氏子はもう、いよいよ自分本位でなくて、神様本位で動く事が認められた時、始めて神様が氏子本位の働きを、みせて下さる様に、なるのじゃないだろうか。その時に例えば31節・32節が守られて始めてここに出て来る、いわゆる、あたる事ないおかげが受けられる、とこう仰っておられるおかげを受けられる。あたる事の無い、おかげが受けられるのだと私は確信いたします。
 どうぞ立教神伝の最後の所、そこをもう一辺皆さんよく御覧になってですね、繁盛いたし、末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く、というそこから始めてです、親にかかり、子にかかり、末々まで繁盛して行く道の約束がなされる訳です、ここからそこんところの前の所です、氏子あっての神と言う様な所がまだ分らない間はここの、最後のところになって来ない。
 そこんところを神あっての氏子と、神様あっての私共、私共あっての神様というのが次の段になって来る所に、私は信心の本当の姿と言う物があり。そして31節であり32節である所の内容が身に付いてしもうて、始めてあたる子よもなからなければ、障る事もない、いわば引っ掛る事もないと言った様なおかげが頂ける事だと私は思います。
   どうぞ。